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2017年6月

ザ-ダンサー



1900年初頭、パリのフォリー-ベルジェールの観客を熱狂させたロイ-フラー。モダン-ダンスの祖と言われたロイは白いシルクのドレスをまとい照明の効果を活かしてまるで暗闇の中から光の花が浮かび上がるような舞台を創造したそうです。
女性によるダンスが卑しいものとされていた時代に自分の信念、情熱、美意識に忠実にひたむきに踊った女性。この映画はそのロイの舞台芸術に捧げる熱い思いを描いています。
イサドラ-ダンカンの名前は知っていたけれど、ロイ-フラーの名前は知らなかった。実はイサドラを見出したのはロイだったそうです。
ロイは踊っただけではなく、カラーフィルターを使った照明や舞台衣装などの開発もして、現代の舞台芸術や振り付け師達にも大きな影響を与えているそうです。
この映画では歌手のソーコがロイを熱演。自分の羽を抜いて反物を織るおつうのようなひたむきさとエキセントリックな姿が胸に迫ります。
実在したロイは芸術や化学や上流階級の人々との親交があり、色々な分野に貢献できた充実した人生を送ったようです。
残されたロイの写真や絵をもとにこの映画のために振り付けられたダンスシーンは圧巻です。

二カ月前



8月のコンサートまで二カ月になりました。今日はフォーメーションを考えながらの練習を重点的に行いました。皆仕事が忙しいのでなかなか練習時間が取れないのが悩ましいところです。踊り慣れた曲も、もう一度新しい視点で見直すと発見がありますよ。

いい汗をかいた後は美味しいおやつが待っています。井上さんお手製のシフォンケーキ。しっとりほの甘く、紅茶の香り。絶品。

先日山形へ行かれた佐藤さん。山形ではワラビをそのままの長さで煮て食べるそうです。という訳で食べ方伝授。美味しい。

長沢節



二カ月ぶりに会津の芳賀さんと散歩を楽しみました。芳賀さんが日曜美術館で見た長沢節展を見ようと提案。長沢節といえば、子供の頃からファッション雑誌に必ず彼のお洒落なイラストが掲載されているのを楽しみに見ていました。細いモデルが大好きで、踝がクッキリ見えるところに彼の美学がありました。
以外なことに反骨精神旺盛な会津出身だそうです。会場は根津の弥生美術学校。一度訪ねたかった美術館なので一も二もなく賛成。根津から言問通りを東大に向かって歩き、三叉路を左に。

明治、大正にかけて、本郷界隈に菊富士ホテルという絵描きや文士が長逗留していた有名な下宿屋のようなホテルがあったそうです。この弥生美術館の塔はその菊富士ホテルを模しているそうです。小説を読むと昔の人達はよく歩いてますね。この界隈も文士達の散歩道だったのでしょうね。そういえば、昔友人が本郷荘という木造三階建ての下宿屋に部屋を借りていたことがありました。趣のあるあの建物はまだあるのでしょうか?このあたりを歩いているとタイムスリップしそうです。

ここが美術館の入り口。横にカフェがあります。

節さんの看板。

戦後の日本をお洒落に彩ってくれた沢山のイラスト。創立した学校、節モードセミナーの内部の写真。愛用していたバッグや靴なども展示してあり、一貫した彼の美意識を感じられます。芳賀さんの同級生が節さんの生家を守っているそうです。日本人離れした粋な感性はパリジャンのよう。戦後の日本人が憧れたパリの空気が漂います。時代に求められた一人ですね。

弥生式土器も発見され、水戸藩の御屋敷もあったそうです。

動きのある綺麗なイラスト。

本人と同じ172センチ。50キロ。が理想のモデルだったそうです。

墨で一気に描きます。

板倉鼎-須美子展



目黒美術館で開催されている板倉鼎-須美子展に行って来ました。先日他の美術館でこのポスターを見かけ検索したらますます見たくなって急いでやって来ました。
板倉鼎は1901年に医者の家に生まれ、東京美術学校(今の芸大) で学び卒業した翌年に須美子と結婚してアメリカ経由でパリに留学します。ロシア文学者昇ショムの長女として生まれた須美子は文化学院で山田耕作に音楽を学んでいたが、17歳で学校を中退し鼎と結婚、パリに向かいます。
二人の結婚式の媒酌人は与謝野寛、晶子夫妻だそうです。大戦と大戦の狭間、パリが憧れの地で、多くの文化人が彼の地で切磋琢磨していた時代。経済的にも文化的にも可能な環境にいた、若く美しく才能にも恵まれた二人。前途洋々、輝く光しか見えない。
1926年7月31日、午後4時のパリ。列車から降りたった若く美しい二人の日本人。画家-板倉鼎と妻-須美子。
永遠に若い二人の閃光のような物語

ポスターになった鼎の作品、(赤衣の女) 1929年。この年に二人は生まれたばかりの次女ニ三 ふみ を失くします。そればかりか、鼎自身がこの年の9月に敗血病で急死。

鼎の作品。(黒椅子による女) 1928年。
四年弱のパリ滞在。それは二人の結婚の歴史でもあり、鼎にとっては温厚な写実から、モダンで華やかな構成的な画風に変わっていき、ますます伸びやかに才能開花させていく道程でした。
音楽を学んでいた須美子は鼎の手ほどきで絵を描き始め、何物にも囚われない伸びやかさと、ナイーブな感性で筆をとり、鼎と共にサロン-ドートンヌに入選を果たしていました。


鼎の作品。(金魚) 1928年。

須美子の作品。(午後 ベル-ホノルル12) 1927〜28頃。
パリに行く前に立ち寄ったハワイでは、二人は四カ月ほど滞在し、地元の人達に暖かく迎えられ楽しい日々を過ごしたそうです。鼎は有志の後援で個展も開催したそうです。美しいホノルルという意味のこのシリーズは須美子の表現意欲を掻き立てたようです。

須美子の作品。(ベル-ホノルル 20)
夫と次女を相次いで失くした須美子は友人達の援助で幼い長女一 かず を連れて帰国。ところが翌年にはそのかず も病気で失います。
その後、再出発を期して有島生馬に改めて指導を受けて絵画への情熱を持ち続けましたが、結核を発症し、25歳で亡くなりました。
光が輝いているほど、その影が暗い。30年にも満たない二人の人生ですが、今なお褪せることがなく、永遠に若い二人の閃光のような物語は生き続けていきますね。

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